松本康之弁護士監修「無断離婚対応マニュアル~外国人支援のための実務と課題」が刊行されました

長野総合法律事務所に所属する松本康之弁護士は、公益財団法人とよなか国際交流協会の役員であり、在日外国人の権利実現に向けての活動に力を入れています。

そんな松本先生が監修する書籍が上梓されました。タイトルは「無断離婚対応マニュアル~外国人支援のための実務と課題」です。本書の著者である「リコン・アラート(協議離婚問題研究会)」は、2015年2月に開かれたシンポジウム「勝手に離婚されるだけじゃない?無法地帯の協議離婚」をきっかけに結成され、電話相談、動画配信、多言語パンフレットを通じて情報提供を行っています。

「無断離婚」は、外国人相談の現場では頻繁に寄せられる問題です。同団体によれば、外国人が「離婚届」の漢字を読めないのをいいことに、別の書類と言われてサインさせられたり、相手にサインを偽造されたりということがあるそうです。裁判なしに離婚できない国も多いので、まさか書類だけで離婚できるとは思いもせず言われるままサインした外国人もいます。

「無断離婚」によって外国人は在留資格を失うばかりか、その子どもたちの親権にも影響します。日本の協議離婚制度は世界でも稀な簡便な離婚制度であるが故に、当事者はこれを悪用されないように正しく知っておかねばなりません。

本書は、情報発信の一環で作成した「無断離婚」の被害者の支援者向けマニュアルです。関心のある方は、ぜひ一度手に取っていただきたいと思います。

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松本康之弁護士の依頼者通信 龍王大神

西天満交差点から読売新聞のビルの前を通って北進すると、スーパーマーケットの前に小さな社があります。これは道路上に中州のようにあって、自転車や車はこの社を避けて進まねばなりません。寺や神社は過去に権力者によって移動させられたものが少なくありませんが、この社は動かせない事情でもあるのでしょうか。

社を動かせない理由としてまず思いつくのは「祟り」でしょうか。この龍王大神の祠の後ろには注連縄を巻かれた大きな銀杏の木があるのですが、やはりこの木は霊力が宿るとされており、道路拡張のために伐採しようとしたところ、工事関係者が亡くなったという言い伝えがあります。また、戦争で空襲があった際には、この社の前で迫りくる火の手が止まったという逸話も。空襲の被害に関しては「大阪市戦災消失区域図」という資料があるので、半信半疑で野崎町のあたりをみると、たしかに色がついていない(消失していない)ゾーンがあります。やはり霊力のなせるわざなのか。それが理由かどうかは分かりませんが、社は道路上にそのまま鎮座しています。

赤い燈篭に「太融寺」と書かれていることからも分かりますが、この社は200mほど西にある太融寺のもので、もとは広い境内の一部であったようです。銀杏の木には白蛇が住むという伝説があり、蛇は「巳」、なので関西では「ミイサン」と呼ばれます。神秘の力が宿る木を地元の人は大事にしているようで、上の写真を撮った日、玉垣の内側は落ち葉ひとつなくきれいに掃除されており、ろうそくの火も灯っていました。今月、台風21号が大阪市内に大きな被害をもたらしましたが、さすが空襲の火の手を防いだだけのことはあって、龍王大神の祠も銀杏も何事もなかったかのように立っていました。

松本康之弁護士の依頼者通信 日本銀行大阪支店(2)

日本銀行大阪支店の中庭には2本の大きな古木があります。旧館に近いほうはクスノキで、1583年(天正11年)に豊臣秀吉が大坂城を築城する折に、天守閣から20町(2.2km)の目印として植えた木の子孫だと言われています。「子孫」ですから秀吉が植えた木そのものではないのでしょうが、樹齢は100年以上。落雷でもあったのか、高さ5mくらいで折れたようになっています。

もう一本、新館の側にある大きな銀杏は、クスノキよりも先輩です。江戸時代にこの場所にあった島原藩の屋敷の敷地内に植えられていたもので、樹齢200~300年と推定されています。この地は明治になって島原藩の屋敷が取り壊された後に大阪中央郵便局の前身である駅逓司大阪郵便役所となり、それが移転した後に日銀大阪支店の敷地になりますが、オーナーは変わっても木は引き継がれてきました。さらには戦災にも耐えて現在に至ります。

2本の古木を直に見ようと近づいたのですが、さすが日本銀行、中庭の出入口は警備員さんがしっかり見張っているのでこっそり入ることはできません。仕方がないので、グーグルアースの俯瞰写真を貼っておきます。建物に囲まれた中庭の右がクスノキ、左が銀杏です。

東京の日本銀行本店の建物は、上から見ると「円」の字をかたどっていると言われますが(当時の字は「圓」ですからそんなはずはないですけど)、大阪支店はあえて言えばBankの「B」?

松本康之弁護士の依頼者通信 日本銀行大阪支店(1)

地下鉄淀屋橋駅を上がって中之島方向を見ると、大阪市役所と向き合う形で日本銀行大阪支店が目に入ります。シンメトリーで美しいネオ・バロック様式の建物は、中央公会堂、中之島図書館と並ぶ中之島のシンボル的な近代建築です。この日銀大阪支店には旧館と新館があり、御堂筋に面しているクラシックな建物が1903年(明治36年)に竣工した旧館、奥にある現代的な建物は1982年(昭和57年)に建てられた新館。これらが「コ」の字を向い合せたように、敷地を取り囲んで配置されています。

今では大阪人でさえ忘れている人が多そうですが、政治の首都は東京でも、日本の経済の中心地は1970年代くらいまでは大阪でした。その源流はもちろん「天下の台所」と言われた江戸時代にあります。中之島の両岸に各藩の蔵屋敷が立ち並び、世界に先駆けて先物取引を行うなど、大阪は日本の金融センターとしての役割を果たしていました。

明治維新後、1882年(明治15年)に東京に日本銀行ができると、大阪の経済人はすぐに大蔵卿松方正義に大阪支店の設立を陳情、結果、本店開設のわずか69日後に大阪支店が開設されます。当時の大阪の経済人の気持ちは、「大阪をさしおいて、なんで東京が本店やねん?」だったはず。実質的にも、明治17年頃には日銀の取引金額の約6割が大阪支店であったといいます。

日銀大阪支店は、最初は今の三井住友銀行本店の南に設けられましたが、業務の拡張により約20年後に中之島に移転します。その際に建てられたのが現在の旧館ですが、設計を依頼されたのは本店を手掛けた辰野金吾氏。あくまで想像ですが、辰野氏を選んだ理由は「本店と統一感のあるものを」でなく「本店以上のものを」だったのではないでしょうか。壮麗な旧館のデザインの下地には、大阪人の「東京より大阪のほうが上だ」という意地とプライドがあると勝手に想像しています。実際のところ、建物の美しさは本店と支店で甲乙つけがたいと思いますが、環境を含めれば、すなわち建物の両側に川が流れる風景をあわせて見れば、大阪支店のほうが絵になるとは言えそうです。

(つづく)

松本康之弁護士の依頼者通信 大阪市道路元標

大阪駅から松本康之弁護士の事務所に歩いて向かう途中、面白いものを見つけました。夏の強烈な陽射しを避けて地下道を歩き、第3ビルの脇で地上に出たところ、梅新交差点から少し離れたあたりに、大きな金のおもりが台に突き刺さっているような、…モニュメント?かと思い近づくと、「大阪市道路元標」と書かれていました。

台座の裏側を見ると、この「元標」が国道一号線の終点であり、国道二号線の起点ということでした。なるほど、国道一号線と二号線が一本の道路なのは知っていましたが、どこからどこまで、というのは知りませんでした。それだけではありません。この地点がその他3つの国道の始まりであり、2つの国道の終わりであることも記されていました。

モニュメントの脇にある説明板を見ると、その昔、大阪の道路の起終点の基準は高麗橋東詰めにあったのだそうです。これが大正11年に大阪市庁前に、昭和27年に新道路法の制定によりここ梅田新道に元標が設置されたとのこと。東京の起点はお江戸日本橋ですが、大阪は昔は高麗橋だったんですね。それもまた発見でした。

梅田新道の場所は、もともとは木がうっそうと茂る昼でも暗い森だったそうです。何と言っても曽根崎心中のラストシーンの舞台ですから、寂しいところだったのでしょう。そんな場所が日本の動脈となる国道の起終点になるとは、お初と徳兵衛も空の上で驚いているのではないでしょうか。

松本康之弁護士の依頼者通信 天満堀川跡(3)

天満堀川は埋め立てられましたが、すべてが完全に地面と同じ高さになったわけではありません。もともとが掘り下げられているという「メリット」を活かし、道路と立体交差を形成している箇所があります。

その一つは、国道一号線が走る堀川橋。その下を信号でストップすることなく自動車がスイスイと橋の下を走ります。一度は堀川戎の手前で地上と同じ高さに上がりますが、扇町の手前でまた元の「堀の底」に戻り、今度は綿屋橋の下をくぐっていきます。先述の堀川橋と綿屋橋はもちろん近代的な鉄筋の橋ですが、何度も付け替えられながら400年も同じ場所にある「由緒ある」橋です。

さて、天満堀川の歴史に話を戻しますと、最初に豊臣秀吉の命で掘削されたとき、天満堀川は大川から現在の扇町公園の手前までで行き止まりの「堀」でした。しかし、生活排水をここに流したこともあり、しだいに水質が悪化し、衛生的にも問題が発生してきます。そこで、江戸時代後期の天保9年(1838年)に天満堀川を北東方向に伸ばし、大川の上流、都島橋の南側でつなげる工事が始まります。堀の両端を川につなぎ、淀んだ水を流してしまおうというわけです。

この工事により、延伸ルート上にあった「夫婦池」が埋め立てられました。この池には、その名の由来となった伝説があります。池の近くに仲の良い夫婦が住んでいたのですが、夫が「三年間待ってくれ」と言って旅立ちます。ところが、三年たっても夫は帰って来ず、妻は悲しみにくれて池に身を投げてしまうのです。その後、夫は帰って来ますが、妻がすでに亡くなっていることを知り自らも池に身を投げる、というもの。その後、池の跡には妙見堂が建てられ、縁日にはたいそう賑わったということです。

現在は天神橋筋商店街になっている通りが天満堀川を渡る橋には、夫婦池にちなんだ夫婦橋という名がつけられていました。川が埋め立てられた際に夫婦橋もなくなりましたが、数年前に橋の欄干と燈篭が復元され、脇のスペースにはかつての夫婦橋の写真と前述の伝説の顕彰碑が設置されました。ここの信号は待ち時間が長いので、赤信号が変わるまでにご覧になってはいかがでしょうか。

ここから先、大川まで天満堀川の形跡はありません。川筋に建設された高速道路の高架に沿って歩いて行くと、さほど時間もかからずに大川に出ます。

松本康之弁護士の依頼者通信 天満堀川跡(2)

大阪市中心部の高速道路の多くは、川もしくは川であったところに沿って走っています。天満堀川も例にもれず、その上に阪神高速道路12号守口線が建設され、それとほぼ同時に埋め立てられました。高速道路は歴史的な景観を破壊しているという批判もありますが、用地取得の問題とモータリゼーション対応のためにはやむを得ず、唯一良い点があるとすれば、高速道路が作られたおかげで「川筋」は喪われることがなくなり、跡をたどりやすいことが言えるかと思います。

天満堀川の跡をたどって歩いてみましょう。大川に面していた太平橋跡から北方向を見ると、大川と天満堀川の接続部であった場所に「大阪市建設局天満堀川抽水所」という建物があります。何の施設なのかと調べてみると、抽水所とはポンプのことで「降雨初期の雨天時下水を貯留することにより、放流汚濁負荷量を削減する」ものだそうです。要は、「水の都」大阪の川の水質向上のために作られた下水施設。もともと天満堀川は生活排水を流すために作られたことを考えれば、川はなくなったもののその機能は抽水所に受け継がれていると言えそうです。

抽水所に沿って古い蔵が立っています。ということは、この蔵は川沿いに並んでいたのでしょう。蔵そのものは古いですがまだまだ現役のようで、台車を押して荷物を出し入れする人の姿が見えました。

高速道路の高架に沿って北に進むと、高架下のスペースに橋の親柱とお稲荷さんが。保存されているというより忘れ去られたと言ったほうが似合いそうなこの親柱には、「たるやはし」と文字が彫られています。古地図によると「樽屋橋」であったようです。ここにあるのはコンクリート製の親柱なので、川が埋め立てられた時にあったものでしょう。樽屋橋は老松通りにつながる大阪天満宮の参道の上にあり、天神祭の陸渡御の行列が通るコースでもあります。横断歩道は川筋に対してやや斜めに描かれていますが、樽屋橋もまた斜めにかかっていたことが分かります。陸渡御が樽屋橋を渡る光景が見たかった…。どこかに写真が残っていないでしょうか。

(つづく)

松本康之弁護士の依頼者通信 天満堀川跡(1)

大阪市内には「〇〇堀川」という川がいくつかあります。もちろん堀ですから人工の川なのですが、まず頭に浮かぶのは「道頓堀川」、「土佐堀川」、それに「東横堀川」でしょうか。地名として残る「江戸堀」「京町堀」「長堀」も、水があった当時は後ろに「川」がついて「江戸堀川」「京町堀川」「長堀川」と呼ばれていました。

地名に残っていないので、前述の「掘川」ほどの認知度はないかも知れませんが、かつて大阪天満宮を囲むように掘られた「天満堀川」という川がありました。

天満堀川が開削されたのは1598年(慶長3年)、大阪城が完成した年のこと。大川の難波橋と天神橋の間からまっすぐ北に掘り進められ、当初は現在の扇町公園の手前で行き止まりでした。現在、中之島の東の端は「本島」と離れて小さな橋でつながっていますが、この橋の上から北側を見て真正面にある小さな広場が天満堀川の「河口」でした。

ここが川のT字路になったわけですが、大川沿いに天満堀川をまたいで架けられた橋は太平橋と言いました。1968年(昭和43年)、天満堀川は高速道路建設時に埋め立てられますが、大川から北に150mほどは残され太平橋も残っていました。しかし、1986年(昭和61年)に完全に埋め立てられ、今は太平橋の親柱のみが広場の入口に残されています。

面白いのは、広場の隣にある乾物問屋さんのビルの前にひときわ古い太平橋の親柱が立っていること。明らかにこちらの方がコンクリート製のものより古いので、橋が付け替えられる前のものかと思われます。

(つづく)


※「大阪城」は建造当時は「大坂城」でしたが現在の表記としました。

※「大川」は当時「淀川」でしたが、混乱を避けるため現在の名称としました。

松本康之弁護士の依頼者通信 淀屋橋と大江橋(2)

都市の中心に川が走り中洲があるという点で、大阪はセーヌ川が流れるパリに似ています。淀屋橋、大江橋のデザイン公募においてもパリを意識していたのはたしかで、中之島に立ち並ぶ大阪市役所、日銀大阪支店、中之島図書館、中央公会堂など欧風の瀟洒な建物と調和する橋が望まれました。両橋の完成後、中之島の景観はパリにもひけをとらないものとして、大阪人の誇りであったことは想像に難くありません。

淀屋橋

今、一つ残念なことは、淀屋橋と大江橋のバルコニーのいくつかには石のプランターが置かれ、人が立ち止まりにくくなっている点です。安全の確保と通行人の滞留を回避するためかと思われますが、ゆっくり川を眺めるためのバルコニーのはずなのに、「立ち止まらずにさっさと歩け」と言われているようで、なんだか興ざめです

さて、「兄弟橋」である淀屋橋と大江橋ですが、淀屋橋が大阪でもっとも有名な橋である一方、大江橋がどこにあるのか正確に答えられる人はどのくらいいるでしょう。明らかな知名度の差。これはやはり地下鉄の駅名になったかどうかが運命を左右したと思われます。しかも近辺に大企業の社屋が多いことから、淀屋橋の名前は高級イメージをともなってブランド化しています。大江橋はこの双子の兄弟の出世をどのような思いで見ているのでしょうか。

大江橋

淀屋橋に遅れること75年、2008年(平成20年)に京阪電車中之島線が開通して大江橋駅が開駅しました。しかし、4分の3世紀の間につけられた差は簡単には埋めがたく、二つの橋が同時に設計・施工されたことを知る人は意外に多くありません。

松本康之弁護士の依頼者通信 淀屋橋と大江橋(1)

大阪のメインストリート・御堂筋。梅田と難波をまっすぐ結ぶ御堂筋は中之島を縦断しており、堂島と中之島をつなぐのが大江橋、中之島と北浜を結ぶのが淀屋橋です。

淀屋橋

もともと淀屋橋と大江橋は別々の歴史を持っており、淀屋橋は江戸時代に豪商の淀屋が川を渡って米市場に行くために私費で架けた橋、大江橋は堂島の開発の際に架けられたものです。江戸時代の古地図を見ると、大江橋は淀屋橋のやや東にずれた位置に付けられていました。そもそも御堂筋自体が中之島までつながっていなかったのですが、昭和初期に大阪市の都市計画で御堂筋の幅は一気に幅24間(43.6メートル)に拡幅されて難波から梅田まで貫かれ、この二つの橋もリニューアルされたのです。

大江橋

現在の淀屋橋と大江橋は、1935年(昭和10年)に完成した当時の姿をそのまま残しており、2008年、コンクリート製の橋としては珍しく重要文化財に指定されました。淀屋橋と大江橋は同じようにも見えますが、それもそのはず、両橋はワンセットでデザインが一般公募されたのです。大阪市役所のホームぺージの説明によると、「コンペでは幅員、橋長などのほかに、主構造を鉄骨鉄筋コンクリートのアーチ橋とし、2橋とも同一のデザインとし、周辺の建築物や背景と調和し、2橋の間の道路部分のデザインも考えること、などの条件が示された」とのこと。

このコンペで最優秀作として採用されたのは大谷龍雄氏の案でした。選評を再び大阪市のホームぺージから引用すると、「南欧中世紀の気分ある近代式を用い、その根底においては東洋趣味の横溢せる…(中略)…全体の形極めて端正剛健、その形状の比例最も洗練を経たり」だそうです。なるほど、そう言われてみれば、橋の左右に付き出したバルコニーの脇に立つ街灯は、欧風クラシックな印象もありながら、どことなく日本の寺院にある灯篭を思わせるものでもあります。